だしの歴史

<日本のだしの歴史>

 広い意味での「だし」は世界中に存在しますが、昆布とかつお節の合わせだしに代表される日本の『だし』とは何が違うのでしょう。

 

 世界では、肉類をベースに素材をそのまま煮出し、脂肪分を使って食材に“うま味”をコーティングする「だし」が主流ですが、日本ではかつお節やだし昆布に代表される乾燥加工された素材を使って、ほとんど脂肪分を含まない「うま味物質」を抽出し、食材に“うま味”を移し、浸透させることで食材の持つ本来の持ち味を引き立てるという、世界でも類を見ない独特な調理法を完成させてきました。スープが主食となりえる海外に対し、吸い物なども含め徹底して脇役に徹する日本の“おだし”は、まさに日本にしか存在しない特別な調味料なのです。
では、この日本の「だし」はいつごろ生まれたのでしょう。

 

■日本のだしの誕生

 「だし」の代表的な素材である「昆布」と「かつお」の歴史は古く、700年ごろ(奈良-飛鳥時代)にはその名前が文献に登場しており、当時より重宝されていたことがうかがえます。ただ、「だし」という意味の言葉が文献に登場するのは、それよりはだいぶ遅く、江戸時代(1603年~)に入ってからです。

 

 現在、「だし」の記述とされている最も古い文献は、江戸時代初期に完成した、古書を収集、編集した叢書(そうしょ)「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」に収録されている四条流などに並ぶ日本料理の流派、大草(おおくさ)流の料理書である「大草殿(おおくさどの)より相伝之聞書(そうでんのききがき)」です。

 

 この書は室町時代の後期の資料と推定されており、料理をはじめ、魚鳥の取扱い、飲食の作法について紹介しており、その中で白鳥を煮て調理する際に「にたし」というかつお節を用いた「だし」や、「だし」をとる際にだし袋を使用していたという記述が見られます。

 

 さらに、江戸時代に入ると、江戸時代初期の代表的な料理書である「料理物語」など多くの文献に「だし」を利用した料理が登場してきます。

 

 江戸中期になると、昆布と鰹節との「合わせだし」の記述もあり、このころには現代に近い「だし」の取り方が発明されていたことがうかがえます。

 

 このように日本で「だし」が重宝され、発展した背景には、日本特有の食に対する考え方があったと言われています。

 

 日本では江戸時代初期ごろまで、家畜を食べる習慣がほとんどありませんでした。これは6世紀半ばに日本に伝来し、奈良時代(710年~)にはその思想が定着した仏教における肉食禁止の考え方が、当時すでに稲作を生活基盤としていた日本において、稲作に役に立つ動物の保護という考え方と合わさり、日本人は、しだいに肉食そのものを稲作に害をもたらす“穢れ(けがれ)”と考えるようになったためだと言われています。

 

 実際、天武天皇が、675年(天武4年)に、狩猟・漁獲の方法を制限し、牛・馬・犬・猿・鶏の肉食を禁止する令を最初に出して以来、たびたび肉食禁止令は発令されており、明治天皇が肉食を解禁するまで、肉食禁止は国策の基本として定められていました。

 

 ただ実際には、途中何度も禁止令が出されていることからも判るように、家畜はダメだけど、野生肉は良いと言ったり、馬肉のことを「さくら」、イノシシ肉を「ぼたん」などと言い換えて食べたり、野鳥は食べることが許されていたので、ウサギを野鳥だと言い張り、1羽、2羽と数えてみたりと、なんだかんだと屁理屈をこねながら庶民を中心に肉食は続いていたようですが、それでも他国にくらべ極端に肉を食べない民族であったことは間違いありません。
 結果、日本人の主要食材は米を中心とした穀物と魚介類、野菜となったわけですが、残念ながら、どうしてもこれらは肉のうま味に比べるとどうしても劣っています。

 

 そこで、このうま味を補うために発展したのが、「だし」だったわけです。
 中でもこの「だし」文化を大きく発展させたのは、京都を中心とした関西でした。
 「だし」が「煮出し」として文献にあらわれる江戸時代、京都は天皇家のご家来衆と、その関係者が作り上げた公家(くげ)文化のまちでした。しかし江戸幕府が実権を握っていた江戸時代、そのほとんどは貧乏公家と呼ばれる人たちで、収入が少なく、十分な食料も買えないような状態だったようです。ただ、その気位は高かったため、地元の産物をわずかな調味料で、豪華に美味しく食べるために、食器にこだわり、薄味で素材の旨さを引き出した京料理が生まれと言われています。その旨さを引き出す技術の要が、「だし」だったわけです。

 

 そして、この京都で磨かれた「だし」文化が、天下の台所と呼ばれ物流、商業の中心地であった大阪で庶民料理にも浸透し、全国へ発信されていくことになったわけです。