関東だし
<関東だしの特徴と歴史>
「関西だし」と比較して言われる「関東だし」の特徴は、一般的に色が黒く、塩辛いと言うものですが、この特徴はどういう風に出来上がったのでしょうか?
濃い味付けを好むようになった原因は、江戸時代の庶民の生活にあったと言われています。江戸の町は、徳川時代に新たに生まれた都市ですから、そこに住んでいた人達のほとんどは、地方からやってきた武士や職人、商人、及び日雇い労働者などの、いわゆるフリーターだったそうです。
結果、女性より男性の人口が圧倒的に多く、生涯独身の男性が半数以上を占めていたそうです。
これらの男性は、基本的に肉体労働者で、汗をかく仕事ですから、当然塩分を多く必要としたわけです。さらに当時の江戸庶民の生活は、決して裕福ではなく、その食事の基本は、ご飯、味噌汁、漬物、一品という、とてもシンプルな「一汁一菜」だったようですが、江戸は将軍のお膝元であり、全国から年貢米も集まり、米の流通システムも整備されていたため、長屋の住民でも、よほど貧乏人でない限り、精米した白米を食べることができました。これが江戸っ子の自慢の一つだったようで、その量は、成人男性で、1日約5合、ご飯にすると2kg近く食べていたという記録も残っています。
肉体労働者が、この大量のご飯を、少ないおかずで食べるわけですから、おのずと副食の味付けは濃いものが好まれることになったというわけです。
ちなみに、白米のみを大量に食べ続けた結果、雑穀を白米に混ぜて食べていた地方に比べて、江戸っ子は大幅に「ビタミンB1」等が不足し、「江戸わずらい」と呼ばれた脚気(かっけ)が流行し、死者も多数出ていたという記録が残っており、13代将軍の徳川 家定(とくがわ いえさだ)の死因も脚気が原因だと言う説もあります。
脚気は、なんと昭和初期まで、結核と並ぶ二大国民病と呼ばれ、多いときは年間2万人を超える死者を出していた、恐ろしい病気だったようです。
昭和中期ごろから、庶民の生活が豊かになり、栄養が行き届いたことで、その数は激減したのですが、江戸時代も、ビタミンB1を多く含む「そば」を食べることで、脚気が予防できることを経験的に判っていたようで、漢方療法としても使われており、東京で「そば文化」が根付いた原因の一つだと言われています。
この「そば文化」が定着したことも、実は「関東だし」が塩辛い原因となっています。
香りを重要視する「そば」は、濃厚な「つけだし」を少量つけて食べるのが基本であるため、「かけだし」においても、「つけだし」に使用する「返し」と呼ばれる醤油に砂糖、味醂を加えた濃厚な調味料を使用し、「つけだし」の延長的な考えから、「だし」を飲み干すことが前提とならず、濃い目の「かけだし」となったと思われます。
また、「だし」によって味に「うま味」を加える関西に比べると、関東はどちらかと言うと醤油で「うま味」を足す文化ですが、その理由は、関東の水は、関西に比べてミネラルが多く、「だし」が出にくかったことと、「関西だし」の主食材である昆布が、江戸時代の物流の関係で、質の良い商品が関西に集中し、関東にほとんど入らなかったことが上げられます。
こうした結果、関東では、関西のように昆布とかつお節の「合わせだし」は発展せず、かつお節などの節を厚削りにし、長時間煮出す、濃厚な“おだし”を取る文化が定着しました。
そうすることで、濃い「だし」は取れますが、当然雑味やクセも強くなり、それに負けない調味料が必要となりました。
それには良質な「だし」を前提とした関西の「うすくち醤油」では物足らず、結果、江戸近郊の現在の千葉県、野田、銚子で「うま味」が強く濃厚な「こいくち醤油」が生まれたと言われ、醤油の一大産地として大きく発展しました。
後に野田からは「キッコーマン」、銚子からは「ヤマサ醤油」「ヒゲタ醤油」と言った日本で数夕の醤油メーカーが誕生し、今や「こいくち醤油」は日本人が使う醤油の8割以上を占めています。
このようにして、濃い味付けを好む関東人に合わせ、かつお節で濃厚に取ったおだしに、しっかりとした“うま味”のある濃口醤油をたっぷり使った「関東だし」が生まれたというわけです。